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2005年11月04日

故イツハク・ラビン首相暗殺10周年

2005年11月4日08:00 FM95 のニュース

エリヤーフ・マツァ元最高裁判所裁判官は、「イツハク・ラビン暗殺に関するイーガル・アミールの罪は、明白だ」と発言した。アミールは警察の事情聴取で暗殺容疑を認め、裁判でもそのことに対し上訴しなかった。

マツァ裁判官は当時、イーガル・アミールの上訴について判決を下した裁判官団のメンバーの1人。マツァ裁判官はインタビューで、裁判は扇動と暗殺の関係について触れなかったが、暗殺数日後アミール本人が「宗教的後援が無ければ行動しなかった」と供述した、と発言した。


超正統派の学校では、イツハク・ラビン首相追悼記念は行われない。多くの学校は、各学校に送られた、暗殺とその影響について書かれた教材を、教育省に返送した。宗教私立学校やトーラー学校の「マアヤン」は「ラビンは聖書の偉人ではないので、記念式典を行う必要は無い」と述べた。

教育省は、ユダヤ社会やイスラエル社会における対立やそれらの民主的解決についての教材を各学校に送り、超正統派の学校もイツハク・ラビンの追悼記念日に参加するよう努力をしていると発言した。

【解説】

今日で故イツハク・ラビン元首相が暗殺されてちょうど10年(西暦では)。イーガル・アミールは暗殺者の名前。

暗殺前にあった右派による扇動などが、暗殺へ導いたとの非難がある。「扇動と暗殺の関係」はその事。


【イツハク・ラビン・2】

1974年、国会入りし、労働大臣に任命される。同年、ゴルダ・メイール首相が辞任。党内選挙でシモン・ペレスを僅差で破ったラビンが、首相となる。

第1次ラビン内閣では、ラビン首相とシモン・ペレス国防長官(当時)との争いが目立った。ペレスはラビンの力を弱めていた。また、メイール前内閣から引き継いだ、経済的社会的困難もあり、この内閣は不安定だった。

宗教的シオニズム団体のグシュ・エムニームもこの頃強くなる。シモン・ペレス国務長官国家宗教党(マフダル党)の協力を得て、西岸地区での入植地建設を強化する。


1976年12月、F-15戦闘機がイスラエルに来た記念式典の際、内閣大臣がシャバット(安息日)の戒律を破ったとして不信任案が提出される。この時、臨時内閣には不信任案を提出できないという法律が成立され、ラビンは次期選挙まで首相を続けることになる。この後、シモン・ペレスを党内選挙で破り、次期選挙の労働党代表となる。

しかし、77年3月、大使時代に妻レアが、外国に銀行口座を持っていたことが発覚。妻の裁判を避ける為、ラビンは首相候補から辞任。また、党内選挙でもペレスに大敗。ペレス率いる労働党はリクードに敗北。初めて野党に回る。


1984年、連立政権が発足。これにより、国務長官に任命される。国務長官として、南レバノンまでの撤退を指揮。またこの頃、第一次インティファーダが勃発。ラビンはこれに力で対抗することを命じる。

2回目の首相就任後のラビンについては、また次回…

<<<イツハク・ラビン・1

投稿者 moshe : 2005年11月04日 16:07

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